英語は「自己主張の言語」です。自分の立場をはっきりさせてから、衝突をいとわずに対立点を論じあって解決しようとします。
それに対して日本語は、「相手に察知してもらう言語」。 まず共通点を探りあいながら、角が立つことを避けて、文脈にそった共感を得ようとする言葉です。
異民族がしょっちゅう行き交う地続きのヨーロッパと、同質性の強い島国の日本との、歴史的な背景の違いに由来するものでしょう。
たとえば、Thank you.の裏には(I)thank you.と、あなたに感謝する「私」という存在が、しっかり隠れています。
日本語では、「ありがとう」ですね。「ありがとう」のルーツは、「有り難い(めったに無い)」という”状態”が変化したもので、そもそも人について語っていないのだそうです。
また英語圏では、すれ違った際の挨拶でよく互いの名前だけを呼び合います(「ジャック」「スティーブ」など)。
これって日本人の感覚だと、ちょっと違和感がありませんか?日本では「やぁどうも」「あ、どうも。」という風に、互いの名前は言わないことが多いですよね。
個人としての「私」や「あなた」がまずあって、そこからスタートする英語に対し、言わなくてもわかる情報(お互いの名前など)はなるべく省こうとする日本語との違いを、ここにも見ることができます。
しかし当然ながら、幼児・子供向けの英語教室では、こんな日本語と英語の違いについては、決して教えてくれません。
ネイティブの講師も親も、こんな比較文化的な目線を持っていないケースが普通ですし、子供だってチンプンカンプンでしょう。
しかしそれならば、とにかく英語の発音に子供の耳を慣れさせて、Hi!とかCool!といったフレーズをたくさん覚えさせることが、英語の早期教育や教室通いの唯一の目的になるのでしょうか?
そもそも幼少期から英語を学ぶことは、「自己主張する力」を伸ばす訓練になっているのでしょうか?
英語的なアプローチ、すなわち「私は私」「あなたはあなた」という互いの違いをはっきりさせるコミュニケーションの訓練を子供にさせたなら、子供の社会では下手をすると、いじめや仲間はずれにあったりしかねませんね。
しかし、いまの日本の「大人の社会」で求められる英語は、対立点を乗りこえてこちらの主張を納得させるための、「競争社会を勝ち抜く武器としての英語力」でしょう。
グローバル企業が社員にTOEICなどを義務づけているのは、異質な価値観を持った相手を説得して議論に勝つための「戦う英語」の使い手が欲しいからです。
同じ英語でも、幼児や子供のときに触れるフワフワした、「外国人と仲良くおしゃべりするための英語」とは、似て非なるものと言ってよいかもしれません。
幼少期から文化的な物の見方の違いを身につけさせようとするのは、確かに素晴らしいことなのかもしれません。
しかし子供からすれば、自分の外に広がる世界との協調性を身につけることでもう一杯一杯なのではないでしょうか。
ですから、英語教室に通っている子供の英会話がサッパリでも「教室の子供たちと仲良くしているうちに、友達の作り方を覚えたみたい」というほうが、むしろ子供らしくてよいとは思いませんか?(英語を学ぶ目的と意味~子供の親として考えたいこと)
皮肉なのは、この日本では「英語教室行かせたのに、友達と遊んでばかりで英会話はサッパリだった子供」のほうが、大人になった後は社会性や協調性があると評価されて、活躍するかもしれないことです。
みんながみんな、将来グローバル企業で働くわけではないのですから。
それなら、わざわざ英語教室に行かせる意味がない?いえいえ、「英語教室に行ったからこそ、社会性や協調性が身についた」と、結果から評価することもできますよね。
「日本語と英語を比較しながら、良い所を自分のものにしていく」というアプローチは、やはりもう少し脳が発達してから、歴史を本格的に学び始める中高生になってからのほうが良いでしょう。
子供にはまず、日本語をしっかり学ばせる。
そして英語と日本語の違いについて、いつの日か自分から学びたくなるように、親の立場からそれとなく誘導していくことです。
幼児・子供の英語学習~まずは、日本語の土台をしっかり固めたい
英語教室に通わせるなどの早期教育を心がけるなら、英語の力を伸ばすことそのものについては、期待をかけすぎないことです。
英語もあくまで、子供の教育の一部に過ぎません。
英語を通じて社会や人との交流を体験するだけでも、十分に成功と言えるのではないでしょうか。